村井製菓の和菓子作り



和菓子作りの拘り

自慢の商品はみかさとたわらもなかです。職人さんが毎日みかさを手焼きで焼いているのを、子供の頃、窓ごしに見ていました。その頃味わったあの美味しさをお客様に食べて頂きたいという思いで、工場の前を改装し平成16年11月1日より、店頭でも焼きたてみかさの販売を始めました。 お菊みかさを美雅沙邑庵(みかさゆうあん)と命名し、工場稼働日の10時から夕方6時まで店頭販売をやらせて頂いております。 美雅沙邑庵は、朝10時ごろ焼き上がります。原料の卵は、特別に先代村井清が懇意にして頂いてました全国的に有名な『田隅のたまご』を たっぷり使っています。焼きたてが一番美味しいです(次の日は、原材料にたまごが多く使われていることから少し締まります)。 子どもの頃に職人さんから貰ったあの味をお客様に食べて頂き、
『ここのみかさは他のところと違う。今から知り合いに持って行ったげるんや。それと、私が、家で食る分も』
などとお褒めの言葉を頂いた時などは、和菓子屋として私は本当に嬉しく思います。 現在は店頭販売と共に、地域のスーパーさんとのお取引で商売をやっていってますが、先代の『おいしいものを創る』という精神は、これまでもそしてこれからも同じです。 お客様の『おいしいね』の言葉を聞きたくて、日々精進しています。




田隅(タズミ)のたまご

「日本一の品質と栄養価を誇る濃厚自然卵」として今や全国的に有名な田隅養鶏場産の卵です。 卵は鶏の体質がストレートに影響する食品です。 田隅さんは約40年間に渡り、餌と飲み水に拘った究極の卵を作ろうと情熱を傾け 国内大手の飼料メーカーや浄水器メーカーなどとの提携により各分野のノウハウを美味しい卵作りに結集させ、平成4年12月、遂に究極の卵を誕生させました。餌には化学飼料、抗生物質、合成着色料などは 一切使用せず、良質な糠・魚粉・トウモロコシ・大豆粕・フスマ・アルファルミール・パプリカなどを使い、 水は地下水を汲み上げ不純物を除去し、更にミネラル分を含ませています。田隅商事にて市販もされていますので是非1度ご賞味ください。 味、栄養、品質、どれをとっても国内最高級の卵である『田隅のたまご』を村井製菓は使用しています。





姫路の和菓子の歴史 @ 和菓子の始まり

古代においての菓子は天然の果物や木の実でした。 その後、穀物加工技術の発達に伴い「餅・団子」が作られるようになり、甘葛煎(あまずらに)など蔓あまちゃを 煮詰めた甘味が生まれたり、米もやしから飴が作られたりしました。 やがて奈良時代になると小野妹子を始めとする遣唐使が大陸に渡るようになり、唐菓子(からがし)8種、菓餅14種などが移入され、粉をこねたり油で揚げるなどの 技術が伝わりました。 それらの多くは祭神用として尊ばれました。 日本人が砂糖と出会うのは鑑真によって伝えられたのが最初とされ、平安時代の西暦804年には唐から僧侶最澄が薬品として黒砂糖を持ち帰りました。 その後、西暦1600年前後の慶長年間に、奄美大島にて、砂糖黍が栽培されたのが国産初の砂糖と言われています。 現在では沖縄のサトウキビ糖生産は国内産の2割に止まり、北海道のテンサイ糖が増加し国産砂糖の8割を占めるようになっています。

その砂糖が和菓子のスタイルに洗練されていったのは、千利休の時代に始まった茶道文化の普及によるところが大きく、時の権力者たちも茶や茶道を愛好し、茶会は政治外交の場にもなっていました。 そして、国が安定した江戸元禄の時代になると、各藩とも政治接待としての茶会が欠かせないものとなっていきました。 享保12年(1727年)、8代将軍吉宗が諸藩に砂糖黍栽培を奨励したことで砂糖の入手が容易になり、各地の製菓技術も向上していきました。 諸藩は茶会用の上菓子づくりを競うようになり、城下に優秀な菓子職人を育てるため、江戸や京都などに職人を遣りその育成をするようになりました。 姫路のほか北陸や松江などの城下町には優れた和菓子が今でも伝承されていますが、これは江戸期に茶道を嗜む藩主たちの保護があったからです。



姫路の和菓子の歴史 A 家老河合道臣の改革

江戸元禄〜正徳年間となると国の政情は安定し世の中の暮らしは贅沢になり、幕府の支出は増加する一方となりました。 そのため5代将軍徳川綱吉は金融政策として金貨に他の金属を混入して貨幣発行量を増やしました。そのせいで価値の低い貨幣の流通量が増し、世の中はインフレとなり物価上昇を招きました。 このことにより、全国諸藩の財政は悪化していったのですが、姫路藩も例外ではなく、財政状況は酷いものでした。 河合道臣が藩主酒井忠道の命により財政改革を始めた文化5年(1808年)には、藩の借金は当時の姫路藩の年間予算7年分に匹敵する73万両(現在の450億)にも膨れ上がっていました。 この「倒産寸前」の姫路の財政改革を行った家老河合道臣(河合寸翁)こそが、姫路の和菓子づくりを語る上でなくてはならない人物となります。

城下の領民から低金利で金を集める「冥加銀講」「御国用積銀制度」。綿町に「御切手会所」を創設し藩札発行。金融機関、室津銀元会所設立。飾磨の湛保(飾磨港)開港。 姫路が好適産地であった木綿を「玉川さらし」へとブランド化し、江戸への直送用に「国産木綿会所」を綿町に設立。江戸における姫路木綿の専売権取得。 皮革、鉄などの販売促進。絹、朝鮮人参、砂糖、染物、陶器、蝋燭などのほか、中島の庄助新田・広畑の新鶴場新田・妻鹿、白浜の大佐新田などの新田開発をして米、塩などの増産を奨励。共有米の保存施設、固寧倉設立。私塾仁寿山黌開設。 これらの様々な改革により、やがて姫路が流通の拠点となり、姫路城下には各地の上質の菜種油、小麦粉、白玉粉なども集積するようになりました。 さらに道臣は江戸や京都への和菓子作りのための藩士の派遣のほかに、ヨーロッパの製菓技術取得のために長崎の出島にも藩士を派遣をさせました。 そして、技術を身につけた菓子職人たちは帰藩後、船場本徳寺の門前である博労町にて、菓子生産をスタートしました。 姫路の和菓子はこのように家老河合道臣の改革をきっかけに大きく発展していくことになります。 現在でも姫路市民から「寸翁さん」と慕われいる河合道臣は、姫路城東隣りにある姫路神社境内の寸翁神社に祀られています。